今号の『つひまぶ』では、日本初の公営セツルメント施設「北市民館」について、その設立経緯や後の展開を紹介したが、ここではその“前史”を少しだけ振り返っておきたい。
時代は大正、池上四郎市長と関一助役のコンビによる市政の時代だ。この頃の大阪は、政治的にも経済的にも文化的にもめざましい発展を遂げていた。
池上四郎は会津出身で、長く警察畑を歩んできた人物。大阪府警察本部長も務めていたが、第5代市長・肝付兼行が辞職したのを受けて、1913年(大正2)10月に第6代大阪市長に就任した。
彼が助役として迎えたのが、東京高等商業学校の教授で交通経済学が専門の関一。行政経験のない学者をあえて抜擢したのは、経済政策に明るい人物を市政に取り入れたかったからだという。
池上市政は1923年(大正12)まで続く。この間、市電ネットワークの拡充や都市計画事業の始動と並行して、先駆的な社会事業の展開がおこなわれた。この社会事業の背景には、1918年(大正7)の「米騒動」の影響が大きい。
米騒動は1918年(大正7)夏に富山県をきっかけにして全国に波及したもので、大阪でも大きな騒動となった。第1次世界大戦中の1917年(大正6)、ロシア革命が起き、アメリカやイギリスが反革命勢力を支援しようとし、日本も、陸軍を派遣することを検討しはじめた。しはじめたというか、そういう噂がちまたに流れた。
この1917年(大正6)〜1918年(大正7)にかけては、米が不作で米の相場は爆上がりしていて、そこへ日本の陸軍がシベリアに出兵するという噂が広まったもんだから、米の売り控えが起きて、市場に米が出なくなった。もちろん、相場も青天井で上がっていく。
このために生産地でも米が不足となり、1918年(大正7)7月に富山で米騒動が起こり、それが県外に報道されると、8月初めには各地で一挙に騒ぎが起こりはじめた。
ここからは、政府が新聞に関連報道の禁止を命じ、大阪府では夜間外出禁止令を出し、最終的には軍(第四師団)が出動してようやく沈静化した。
流通業者の売り惜しみ、外国米の輸入、特定企業による廉売…。
JAの危機感のなさやイオンのカリフォルニア米販売など、大正時代にすでに見られたことが、昨日今日、繰り返されているわけだ。。ただし、当時と違うのは「米騒動」が今の日本ではまだ起きていない。
さて、ここからの大阪府・市の対応が素晴らしいのよ。
まず1918年(大正7)、大阪府が「救済課」を設置。これは1913年から都市の社会問題について検討を重ねてきた成果でもある。この、都市問題の予見が素晴らしい。以前から言われてきた水道管問題を先送りにして他に金を突っ込んでいる今の府市とは、見通しが全然違う。
大阪市でも、米騒動が起こる直前の7月1日に「救済係」を立ち上げていた。
騒動が一段落すると、府は同年「方面委員制度」(現在の民生委員制度の前身)を発足。これは小学校の通学区域を単位とし、地域の生活困窮者の保護・指導にあたる仕組みだった。
また市では、1918年4月に期間限定で公設市場を開設。これが好評だったため、米騒動後には恒常的な公設市場へと移行する。そのひとつが、今の「スーパーサンコー中崎町店」がある場所にできた「本庄公設市場」だ。
さらに1919年(大正8)には、市営貸付住宅、市営共同宿泊所、市営浴場、児童相談所、中央職業紹介所などが次々と開設され、
1921年(大正10)には、日本初の公営セツルメント施設「北市民館」が誕生する。
この「北市民館」についての詳細は、今号の『つひまぶ』をどうぞ。
→ https://tsuhimabu.com/?p=469
大阪府市が本当に先駆的だった時代の、先駆的な事業をご覧あれ。



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