「芸術新潮」まで大阪特集組んで、出版業界はちょっとした大阪本バブルやね。
特に買う気はなかったのだけど、パラパラとページを繰っていると、橋爪節也センセーが大阪を解説されているページが出てきたので、それだけで買う。センセー、ごっつうワイルドな風貌で誌面に登場してますやん。海民の親玉みたいでカッコよろし。
さて、表紙はライオン橋(難波橋)のライオンだが、通り一遍のことがちょろっと紹介されているのみで、ライオンの兄弟が和歌山にいるかもしれないことなどは、紹介されていない。せっかくの表紙なのに。。
(ちなみに、今年早々に刊行された季刊民族学「特集 大阪 – 野生の都市」の表紙もライオン橋だった)
和歌山市の登録有形文化財でもある「六三園」には、ライオン橋のライオン像とまったく同じ寸法のライオン像が鎮座している。
六三園(現在はがんこフードサービスが運営)は、大正後期から昭和初期の大大阪の時代に〝北浜の太閤〟とうたわれた株式仲買人の松井伊助が故郷に造成した、回遊式庭園を持つ邸宅だ。
ここにライオン像がある。
難波橋のライオン像は彫刻家・天岡均一が原型をつくり、石工の熊取谷澱南が彫ったと橋銘に刻されているのだが、一方で、六三園のライオン像の台座には、『石匠 浪華 熊澱南』と銘が刻まれている。
『澱』は淀川で、淀川の南の石工と推測できるので、この銘から、難波橋のライオン像を彫った石工の熊取谷澱南と同一人物ではないか? という推測が成り立つ。
ちなみに、どちらのライオン像も、庵治石(あじいし)という高級な花崗岩でできている。
松井伊助と天岡均一は西宮で家族ぐるみの付き合いをしていたことが分かっており、ここからは推測にすぎないが、六三園のライオン像は、難波橋納品用の正式な4体をつくる際の試作の1体かもしれず、あるいは4体を納品した後に依頼された1体かもしれず、経緯は分からないのだけれども、いずれにせよ、大阪の難波橋のライオンと和歌山の六三園のライオンは、生みの親が同一である、兄弟であろう、と。
さまざまな状況証拠から、兄弟だろうという推測が成り立つんである。
大阪と和歌山をつなぐミッシングリンクは依然としてあるのだけど、大大阪の時代のロマンが垣間見えるというものだ。
と、この話は芸術新潮には書かれちゃいないのだけど、つひまぶではちゃんと紹介している。ぜひそちら「つひまぶ vol.20 橋で会いましょう号」をご覧あれ。
ちなみに、つひまぶの当該号も表紙はライオン(笑) ただし、こちらのはQuiyox画伯の名作☆
https://tsuhimabu.com/?p=106




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