茶臼山の大阪城、落城か

茶臼山の大阪城、落城か

茶臼山の大阪城、もとい、「ホテル醍醐」が解体中。大阪城が何度目かの落城か!ということで、一昨日、仕事で天王寺に向かった際に立ち寄ってきた。今、sns大阪界隈で最もホットな話題ではなかろうか。(あ、新御堂筋の昨日の円柱事件があるか)

恋愛経験が乏しいワシはホテル醍醐には残念ながら入ったことはないのだが、令和の時代にあって、平成もすっ飛ばして昭和レトロ満載なスペイシーな空間になっているとか。浴室には、ボディソープではなく固形石鹸が置かれていると聞いたことがある。いまどき銭湯ですら固形石鹸の使い回しはせんぞ。
コロナのときにしんどくなって休業→そのまま廃業らしいのだけど、つぶすには惜しすぎる昭和の歴史遺産だ。でも、こればっかりはね。。

そーいえば、30歳くらいのときだったか、ベッピンのおねーちゃんと天王寺でお茶していたとき、あの大阪城がホテルと知らずにパチンコ屋か何かかと思い、あの城に行ってみーへん?と誘ってみたところ、はぁ?と呆れられたことがあった。無知とはおそろしい。

さて、以前、陸奥さんのまち歩きで案内してもらったときに教えてもらった、この大阪城の麓にある碑文が奮ってるのですよ。
全文あげとこう。
茶臼山歴史について!
 慶長3年、1598年8月18日、豊臣秀吉は、63才で死去!
 死の道前、徳川家康、前田利家、上杉景勝、毛利元就、宇喜多秀家の五大老、現在風でいえば、大物大臣である!
さらに、五奉行に石田三成、浅野長政、増田長盛、前田玄人、長塚正家をおいた、秀吉死去により、家臣石田光成、浅野長政軍は関ヶ原で、徳川家康との最後の戦となった、秀吉の長男秀頼を母淀君が庇って戦いに出さず、豊臣家の家臣が、次々と徳川家に付き、関ヶ原で石田三成軍が敗北した!
 そのころ、真田幸村は和歌山九度山にいた、大阪城にかけつけた時、大阪城は徳川家の手におちる寸前であった!大阪城攻防で名高い茶臼山は冬の陣では家康の本陣となり、夏の陣では幸村の激戦地となった!
幸村は宿州の田舎の住人で、父にならって、優れた難路家であった!
夏の陣は、冬の陣のわずか4ヶ月後のことで、辛材はただちに国分道明寺に出陣した後、大阪城最後の決戦にのぞむ!主戦と成ったのは、茶日山から四天王寺西門あたりで幸村軍はすさまじい勢いで家康等に殺到したが、全員討ち死にし大阪城本丸炎上、秀頼、淀君討ち死に豊臣家二代にわたる栄華は、夢ときえた!!

びっくりマーク(!)が連発されるこんなびっくり碑文はここ以外に見たことがない。ぜひ残してほしい歴史遺産だ。

大阪城の背後というか北へ回ると、ハルカスと大阪城の大阪新旧ランドマークがツーショットで並ぶ。ワシはこっちの光景が好き。
ほんで、周辺を歩いてみると、営業しているラブホもちらほらあるが、大半のホテルが絶賛解体中だ。
再開発の匂いがプンプンするので調べてみたら、住友不動産が所有者になっていた。タワマンができるってことやろか。

せっかくなので、近くの統国寺に立ち寄って、ベルリンの壁を見るなり。
ちなみにワシは、ベルリンの壁が崩れるときに現場にいた。壁のかけらはたぶん、実家にある。

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