大阪七墓巡り

大阪七墓巡り2日目 – 蒲生墓地〜京橋駅爆撃被災者慰霊碑〜真田山陸軍墓地〜小橋墓地

大阪七墓巡り2日目。
過去と現在の汽水域を巡るまち歩きは、大阪市中郊外の「まち」でも「むら」でもない、街道筋の入り口にあたる無縁の場、つまるアジール。そこは「河原者」たちが活躍していた場所でもあり、これまた市中と市外の汽水域というかね。七墓とは、京へ西国へ奈良へと続く街道の出発地点であり終着地点でもある、と。

2日目は、蒲生墓地から。京橋の名物居酒屋「とよ」の隣にある墓地!と言えば、そーいえばあったな、と思い出してもらえるのが蒲生墓地。とよのマグロとセットで記憶されている墓地。
「人+二+ハ+1+一=金」の墓石がある墓地。南濱墓地と並んで、墓地としての姿を残している。
ちゃんと六地蔵さんが入口に鎮座していた。

次に訪れたのが、
京橋駅の南口にある「大阪大空襲 京橋駅爆撃被災者慰霊碑」。
じつはこの七墓巡り2日目がおこなわれた8月14日は、終戦前日、米軍による最後の大阪大空襲である京橋駅空襲の惨劇があった日。
ポツダム宣言による無条件降伏の受け入れ、玉音放送を翌日に控えた8月14日、ゲリラ戦の泥沼に突入することを恐れた米軍が大阪砲兵工廠を破壊しようとおこなった空襲で1トン爆弾が京橋駅を直撃し、600人前後の犠牲者が出た。
終戦の前日の出来事だっただけに、さぞ無念だったことと思う。
そこで手を合わせる。無論、慰霊祭は今もおこなわれている。
七墓巡りと同じく盆におこなわれる行事であることから、歴史が折り重なっていることを思わずにはいられないですな。

途中、寝屋川沿いを歩き、大阪城を眺めながら、ここがかつて帝国陸軍の司令部が置かれ、東洋最大の兵器製造工場だった大阪砲兵工廠があった場所だということに思いを馳せ、そういえば大阪城は陸軍の持ち物だったので、戦前戦中は一般人は立ち入り禁止だったのだと陸奥さんに教えてもらい、寝屋川沿いの片町火除地蔵尊に立ち寄る。
近世大坂の防火政策のひとつ延焼予防の火除明地の名残ですな。

七墓巡りは単純に7つの墓地(跡)を巡るのではなく、道中の、死生のはざまに姿を現している汽水スポットにも立ち寄るのだ。
大阪城に立ち寄り、太平洋戦争時に直撃した爆弾でずれた石垣を見、陸軍第四師団司令部だった建物(現在のMIRAIZA)を見、陸軍第四師団司令部と現在の再建された大阪城天守閣が同時に建設されたことを知り、大阪城公園を抜けて玉造の真田山陸軍墓地へと向かう。

真田山陸軍墓地は、我が国の近代がはじまった西南戦争、日清日露の両戦争、第一次世界大戦を経て太平洋戦争までに亡くなられた陸軍の英霊たち、のみならず日本軍の捕虜となった清国兵、ドイツ兵、アメリカ兵までもが眠る、日本最古の陸軍墓地だ。5,100基以上の墓碑が並び、8,200余の遺骨を納めた納骨堂を擁するとか。

七墓を巡っていると、大阪が軍都だったという、商都だけではない大阪のもうひとつの顔が見えてくる。
大阪夏の陣、冬の陣があり、陸軍の一大拠点があった。七墓を7つのスポットとしてとらえるのではなく、七墓を巡る、つまり線でとらえると、そういうことが見えてくる。
これもまた七墓を巡ることの効用だと思う。

途中、近松門左衛門の名作「冥途の飛脚」で有名な梅川と忠兵衛の塚を見ようと立ち寄ってみると、なーんと、更地になって工事がおこなわれているではないですか。
岡崎学園大阪自動車整備専門学校の新築工事との看板が立てられ、がっつり工事が。。。
塚はどこ行ったんだろうか? 残してくれるといいのだけど。
なんだかなー。

なんだかなーとの思いを抱えながら、その対面は、2日目の終着点である小橋墓地。ここも痕跡はすでになく、長閑な公園となっている場所でありますな。
ま、でも、延命地蔵さんが鎮座されているので、焼香させてもろて、ハイハイタウンに移動して精進落とし。

4時間弱の七墓巡り、こうして終了。
相変わらずの消化しきれないほどの歴史を浴びた巡りなのでした。
明日、千日墓地、鳶田墓地を巡って、七墓巡りは大円団の予定。
ご参加の皆さん、お疲れさまでした。

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