今日、北区民ホールで、「地域防災フォーラム」というのがありまして、それ自体はたいして興味がなかったのだけれども、一昨年、釜石の仮設住宅のコミュニティづくりの支援を行うために北区役所から釜石へ派遣された職員さんが、そのときの様子を話されると聞いて、慌ててスケジュールを調整して行ってきました。
これです。
この職員さんは、普段は、北区でもコミュニティ支援を行っている方で、まだ若いのだけれども、地域から非常に信頼されている人です。僕もよく知ってる。
行政、特に大阪市はなにかにつけて批判されることも多いし、事実、どーしようもないクソみたいな人もたくさんいるし、変な組織風土はあるし、そもそも変な組織だとも思うけれども、もちろん、優秀な人たちや情熱を傾けて仕事をしている人たちもいて、この職員さんは、その代表格のような人です。北区のエースと言ってもいいかもしれない。
そんな彼が、一昨年の9月から約1ヶ月、釜石へ派遣されました。そのときの報告は、何度か報告会が設けられていて、僕も行きたかったのだけれども、なかなかスケジュールがとれずにいて、今回やっと、彼の話を聞くことができました。
釜石は、津波の被害をモロに受けた沿岸部です。一昨年の9月といえば、震災からまだ半年の段階。仮設住宅がようやく揃ったという段階で、津波や震災で壊されたまち、建物などは、まだまだ手つかずの状態ですね。
さて、仮設住宅ですが、いろんな人がそこに入居されてきます。家をなくしたエリアの人たちがごっそりそのまま仮設に移転してくるのなら既存のコミュニティをそのまま持ち込めるけれども、さまざまな場所からさまざまな事情で入ってこられた仮設では、隣人同士の交流すらない、という現状もあったのだそうです。
たとえば、
仮設が何十戸と建つと、ゴミ処理の問題が発生します。
ゴミ捨て場ができたとして、そういう場所は、周辺が汚れたりもします。仕方なしに、ゴミ捨て場に近い仮設に住んでる方が、周辺を掃除したりします。ゴミ出しの時間も決めなくちゃならない。
こういう、みんなで解決しなければならない問題が山積しているなかで、やはり、コミュニティの重要性を改めて認識することになります。
といって、行政が主導して、一足飛びに自治会をつくる、ということにもなりません。
緊急の課題がたくさんある一方で、コミュニティづくりは、拙速にならず、手順を踏んで、彼らは支援を行っていったようです。
まず、仮設住宅の人たちが交流するところからはじめてもらおう、と、彼は、交流会を企画します。
それも、交流会だけではなかなか集まらないかもしれないと考え、救援物資も配ります!と、付加価値をつけていきます。
さらに、告知チラシを、戸別に訪問して、自己紹介を兼ねて、交流会への参加を呼びかけます。
簡単に書いてるけど、なかなかのキメ細かい対応ですね。
そうやって交流会にたくさんの人に集まってもらい、自治会のようなコミュニティは必要ないですか?大切ではないですか?と、問いかけ、仮設の人たちに考えてもらうよう、仕向けていきます。行政指導の押し付けでも説得でもなく、問いかけ、考えてもらい、そこに住む人たちに決めてもらう、そういう手順を踏むのですね。
そういう段階を経て、自治会設立準備委員会のようなものが設立されます。
彼は、その支援を行います。
一方で、ケアしなければならないのは、仮設住宅の入居者だけではなく、その仮設住宅が突如現れた地域の周辺住人です。
場合によっては、ひとつの地域に200戸の人たちが、そこへ移転してくるわけです。
軋轢というようなものはなかったようですが、もともとそこに住んでいた受け入れる側の人たちが、どう接していいのかわからず、戸惑った人も多かったのだとか。シャイな人がたくさんいたというのは、大阪とは事情が違うところでしょうね。
この事例は、たとえば、被災地から大阪に避難してきている人たちを迎え入れている側にも、参考になるものだったと思います。
他、もうひとつの彼のミッションであった救援物資の管理と配布についても、講演では触れられました。
彼の講演を聞いていて、僕が感じたことは次のようなことです。
彼が釜石へ派遣され、戻ってきてから1年半ほどの時間が経ちました。
そのような時間を経ることで、彼自身も記憶が薄れてきていることがたくさんあるとのことです。
彼にも彼の日常があるし、人間は忘れることで前進していく生きものだから、そのことはきわめて真っ当な感覚だと僕は思います。
また、ミッションを果たすために、ガッツリと被災地に寄り添ったときもあれば、意識して距離をとったこともあるかと思います。そのあたりの距離のとりかたが上手い人でもあるので、彼が釜石で行なってきた話を聞いていると、そのあたりの距離のとりかたが手法に表れているのが透けて見えて、僕は大いに参考になりました。
さらに、
彼が支援してきたコミュニティづくりは、彼が大阪に戻ってきて以降、どうなったのか。
彼も今回の講演にあたって、その後がどうなったのか、ネットで調べたのだそうです。
すると、自治会が設立され、自治会新聞が発行され、それこそゴミ捨て場所の運営ルールが決められたことが、ネットを通じてわかったんだそうです。
コミュニティのなかには、ネットでの情報発信が達者な人が一人や二人はいて、そういう人たちが、情報発信されているのですね。
そのおかげで、彼は、大阪に居ながらにして、その後の様子をある程度知ることができたのだそうです。
ひとむかしまえ、ネットがまだ日常の道具ではなかったころ、情報発信の道具ではなかったころでは、こうはいかなかったと思います。
これはいい話だなあ、と、思いました。
自分が関わった仕事がどうなっているのかはやはり知りたいだろうし、知れば、また思い出すこともあるだろうし、繋がっていることも実感できると思うのですね。
そして、そのことは、彼が今の仕事、釜石ではない大阪での今の仕事を続けていくうえでの、モチベーションにもなり得るのではないかと、僕は思います。
そして僕はやはり、自分が関わっているニットによる被災地支援TJWKに、そんなことを当てはめてみます。
それぞれの人たちがご自宅で編んでくれたモチーフたち。4万枚も5万枚も集まったモチーフがあるなかで、たくさんのブランケットやショールといった作品がつくられるなかで、自分がつくったモチーフがある作品のある場所に使われていると「わかること」は、モチーフを編む人たちにとってのモチベーションになるはず。僕はそんなことを思って、できるかぎりオープンな活動でありたいと思うし、できるかぎりキメの細かいフィードバックをしていきたいと思いました。
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