奈良県庁で「奈良の災害史展」をやっているというので、いそいそと奈良県庁へ。
松岡さんが奈良県立大学で先生をしているので、もちろん、合流して。
行ってみると、拍子抜けするほどしょぼくて(笑) 奈良県庁の屋上にある会議室程度の広さの資料室みたいなところの壁にパネルが10点ほど展示されているだけ。。。。
でも、よく考えたら、奈良で災害ってのは、ピンとこないですね。吉野などの南のほうはたくさんありそうだけれども、いわゆる南都では、まったくピンとこない。。
それでも、いくつかの収穫がありました。
時代区分の最初は「江戸時代以前」なのですが、そのカテゴリーには日本書紀まで入っているので、これはもう、災害がなかったか、記録されてこなかったのか。。。
416年(允恭5年)、日本で最初に記録された地震ですと。日本書紀に「地震(なゐふる)」と記述されているとか。被災地域は河内・大和とあるのみで、それ以外のことは一切わからず。まあ、文字が流通して、記録されている最初のものなので、たとえば東日本で地震があっても、それは残ってないでしょうね。
見応えがあったのは、赤土山古墳に残る地震の痕跡。4世紀末から5世紀にかけての東南海・南海地震の跡があるのだとか。こーゆー、地層に残る痕跡は、北区ではなかなか見つけることができません。奈良ならでは。
江戸時代の災害になると、伊賀上野地震や安政の大地震で、瓦版が登場します。
多色刷りの版画で、絵がなかなか細かいです。書かれているテキストを読むよりも、絵で一発で様子がわかるし、瓦版はやっぱ優れてるなと思いました。
明治・大正になると、十津川大水害がありました。
崩壊した土砂の量は、平成23年の紀伊半島大水害の約2倍だそうです。
おもしろいのは、このとき、民間有志により「倶楽部」が組織され、被災地に救援物資を送ったり、義援金を募ったりと、ボランティア活動が積極的におこなわれたことです。まだボランティアという言葉はなかったに違いないだろうけれども、内実は、現代のボランティアとなんら変わりませんね。この時代にそれが組織されていたことには、なかなかびっくりしました。
で、家や田畑を失った一部の村民(2,667人)は、水害から2ヶ月後に、北海道に移住しています。1889年(明治22年)なので、調べてみると、北海道開使が置かれたのは明治2年〜明治15年のことなので、北海道開拓のブームが終わった直後ですね。まだ、そういう感覚が残っていたのかもしれません。
ちなみに、移住先は、現在、「新十津川町」となっており、地名からアイデンティティを感じます。
教訓となる証言も掲載されていました。
「大水が出ていてもキレイな水が流れているときは怖くないんです。しかし、いつも流れていない谷が大水になって黒く濁ってきたときは、上の山が動いている。石垣からの吹き水が黒く濁ってきたら、早く避難せえ。これらは、危険を知らせる警報ですわな。伊勢湾台風のときにね、このことをひとりでも知っていれば、58人の犠牲者が出なかった。これは危険やから避難せえと言えたのにな、と。いつも思っている次第です」(災害現場での治療行為をおこなった地元の医師の話「村史最大の惨禍 語り継ぐ伊勢湾台風」)
こーゆーのは大切だと思うのですよ。オーラルヒストリーは、絶対に丁寧に拾っていきたいですね。
ほか、台風と水害関係が多いですね。
1998年(平成10年)には台風で室生寺の五重塔が大きく破損しました。これ、覚えてます。
奈良は、文化財が集中しているので、その意味では独自の災害時の課題を抱えているかもしれません。
2011年(平成23年)の紀伊半島大水害。
またしても十津川が氾濫します。
通史を眺めて、災害における奈良のウィークポイントは「十津川」だということが、よくわかります。南都(奈良市街地)は盆地だから、水害はまずなさそう。
そんなこともあってか、奈良県が発行している災害対策のパンフも、大阪と比べると、ゆるいです。ハザードマップも載ってません。災害対策が最優先課題にはなっていなんだろうと思います。
ちなみに、この会場は、奈良県庁の屋上にあって、屋上のオープンテラスに出られます。
ここがねー、眺め抜群!
生駒山、三輪山、若草山と三方に大パノラマがひろがっています。視線を下に向けると、興福寺の五重塔、東大寺大仏殿…。ここ、無料です。でも知られていないのか、誰もいません。
ほいで、最後は、恒例の地元の情報誌を探しに、地元の本屋さんへ。
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時節柄、「大和1700年の自然災害史」特集をゲーット☆
ページをめくっていると、1861年(文久元年)、春日大社拝殿に奉納された生駒郡平群町平等寺の「なもで踊り」の絵馬が掲載されていました。
「なでも」とは、「南無御礼」が転じたもので、雨乞いの祈りが通じたことを感謝し、神に捧げたものです。
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