ザ・タイマーズ

音楽に正しさなどを求め出したらロクなことにならんぞ

モンキービジネスと言ってやね、ショービズや音楽産業なんざ、基本的にはガキを騙してなんぼでしょうに。行儀よく言えば、夢を見させてなんぼ。

だから音楽には、正しい音楽とか間違った音楽なんてのはなくて、素晴らしい音楽(夢中にさせる音楽)とつまらない音楽(夢中にさせない音楽)があるだけだ。

むかし、RCサクセションのトリビュート盤が出たとき、ジュンスカだか奥田民生だかが、「キヨシローは僕たちを上手に騙してくれたよね」と言っていた。

そうやって騙されたおかげで、何者でもなかったガキが熱病に浮かされて、こんなところまで来ちゃったよ!と言ってるわけで、よくも騙しやがって!とは、誰も思っていない。あたりまえだが、騙されてよかったと思っている。

僕だって、10代の頃にRCサクセションに騙されて、今、ここにいる。

正しい音楽とか正しくないとか、社会的に正しいとかそうでないとか、表現にそんなモノを求め出したらロクなことにならんぞ。

平和どころか、音楽は戦争を止められないし、逆に、戦争に加担するのが音楽だ。利用されもする。戦時下の「海行かば」だけじゃないね。サトウハチローも北原白秋も戦争讃歌の詩を書き、山田耕筰や古関裕而らが勇壮な曲をつけた。僕たちは「軍人さんが大好き」と歌い、軍国子守唄で眠りについた苦い過去を持つ。

アメリカの南北戦争で、北軍は南軍に向けて「やあ兄弟たちよ、我らに会わないか」と「リパブリック讃歌」を歌い、右手を差し出すフリをして、左手で銃を向けた。

B.スプリングスティーンの「Born In The USA」だって、政治屋どもにさんざん利用された。戦争賛成/反対どちらの陣営からも都合よく利用されたね。

9.11のあと、ブッシュの一方的なアフガン爆撃である〝聖戦〟がおこなわれたとき、アメリカ国中でジョン・レノンの「イマジン」が歌われて〝聖戦〟を後押しした。マーチングだって、行進・行軍のためのものではないですか。

気をつけろよ。音楽は素知らぬ顔をして、正義の面をして、戦争を引き連れてくるんだぞ。

音楽が正義と手を携えたとき、僕たちは眉に唾をつけなければならない。

よく、「歌は世につれ、世は歌につられ」と言うけれども、あれは半分が本当で半分は嘘だな。歌は世になんぼでもつられるけれども、世が歌につられたことなんて、ない。

どんだけ平和の歌が世にあふれても、世界からは厄災はなくならない。平和の歌を歌えば平和が訪れると信じるのは、おめでたい。そんな音楽は、おめでたすぎて、つまらない。でも、そのおめでたさを引き受けてなおあきらめずに平和を歌うのが、音楽家の矜持だ。

音楽はべつに正しいことを歌う必要もないし、音楽家が正しい振る舞いをする必要もない。

SFUの中川敬は政治的な立ち位置を明解にして音楽をしているが、そんな彼の真骨頂は、たとえば、反核コンサートで「核よりおっぱい」と歌い放つダイナミズムにある。

サニーデイ・サービスの曽我部くんは珠玉のラブソングをいくつもつくってきたが、どれもこれも本当のことなどではなくて、彼の脳内で生み出された、どろっとした妄想だ。

音楽家はみな物語を紡ぐ人でもあるけれども、その物語は、現実を突き抜けていく。

理不尽で不条理でやりきれなくてロクデナシなこの現実と対峙するために、音楽家は音楽という物語を奏で、紡ぐ。

音楽だけではない、小説家だって映画監督だって、リナルな現実など突き抜けていくために、物語を、ファンタジーを紡ぐ。

音楽家が政治的な発言をしなければならないことはないし、政治的な発言をしてはいけないこともない。性加害やジェンダー問題に目配せしなければならないことはないし、覚醒剤をやろうがやるまいが、そんなことは音楽の良し悪しとはなんの関係もない。

それらは音楽家である以前の、ひとりの人間としてのスタンスの問題で、そのことと音楽の良し悪しとは、なんの関係もない。

ロックやアートや表現は、自分の歩みを邪魔するなにかに向けて、そこをどけよ!と言い放たざるを得ない、沸騰する情熱の発露でしかない。

だから、素晴らしい表現は例外なくカネのためにはやっていないし、初期衝動が生んだ持て余し気味の厄介な情熱を拠りどころにして、表現はなされている。

東京ドームでコンサートやりたいから東京ドームが似合う曲をつくろう、どうやったらSNSでバズる音楽がつくれるんだろうか、100万枚売れたから次は101万枚売れる曲をつくろう。カネのためにつくられる音楽は、どれもこれもつまらない。夢を見させてもくれないし、騙してもくれない。

音楽が好きでつくられる音楽ではなく、売り上げや視聴回数やカネが好きでつくられる音楽は、つまらない。

山下達郎は、若い頃、まったく売れなかった。売れなくてどれだけ不遇を囲っても、自らが信じるものを拠りどころにしてしか音楽をつくってこなかったし、カネにすり寄った音楽なんてつくらなかった。

その意味で彼は、全キャリアを通じて、聴きたい人だけが聴いてくれたらいい、という態度しか示していない。

それは音楽家の態度として、ごく真っ当な態度ではないのか?

山下達郎にかぎらない。ロックや表現が、そこをどけよ!と、沸騰する情熱の発露というきわめて私的な心情が基になっている以上、それ以外の態度など、とりようがないではないですか。

性加害は、許しがたい。

しかし、音楽家なら、そのことを言葉で示すのではなく、音楽で表現するものだ。それが音楽家の本懐というものでしょうに。僕たちも、音楽家には音楽をこそ求めたい。(ちなみに山下達郎の最新アルバムには「Oppression Blues(弾圧のブルース)」という素晴らしいレベル・ソングが収録されてる)

山下達郎の言葉にいちいち突っかかっている記事を見ていると、イラつく。

音楽家に音楽以外のものを求めて、どうなると言うのだろう。

遠くの国の不幸ほどキレイに苦悩できるという言葉があってやね、誰も彼もが安全地帯にいて好き勝手言っているだけではないか。

正しさなんかではなく、現実を突き抜けてしまう豊饒な物語を。

と、泥田に咲くハスを見ながら、山下達郎を聴きながら、僕は今日もランニングをしている。

 

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