25年大阪・関西万博のパビリオン建設の進捗が芳しくないと言う。
ワシ、じつは1990年開催「国際花とみどりの博覧会」、通称「花博」のとき、ペルー館の館長代理をやっていた。
それまでのワシはバックパッカーで南米のペルーで沈没して、ペルーで暮らしており、それが国際博覧会で国を代表する立場で日本に戻ってきたので、まあ、凱旋帰国ですな(笑) ビジネスクラスで凱旋したよん。ワシ、弱冠24歳のこと。ちなみに館長は当時の観光商工大臣で、そんな偉い人は日本には来ないので、ワシが代理で。このあたりの経緯は世界史とリンクするような大きな話を延々と書かねばならなくなるので、またの機会に。
90年花博は、70年万博や今回の25年大阪・関西万博よりは格下になるけれども、それでも博覧会国際事務局認定の国際博覧会だったのだ。
1990年4月1日から9月30日まで半年間開催されて、特別博覧会の来場者記録を最終的に塗り替えたと聞いた気がする。チケットはたしか3,000円。ワシは裏口がフリーパスだったので、知り合いを何人も裏口から入れた(笑) ちなみに1990年は今みたいな猛暑で、会場では暑さ対策が結構な課題となっていて、会場内に巨大な氷柱を置くという暑さ対策が施されていた。
1カ国1個のパビリオン(今回で言うところのタイプA)ではなく、ペルーのような小国は、ひとつのパビリオンの中を区切って、1カ国1ブースみたいなかんじでの出展だ。「水の館」という円形のパビリオンに30カ国くらいが入っていた(いわゆるタイプC)。我がペルーは、そのなかのひとつだった。学校の教室よりひとまわり小さいくらいのスペースだっただろうか。
あのときもパビリオン建設が間に合わないと騒がれて、会期がはじまってからも、会場のあちこちではトンカントンカンやっていて、重機もいくつか入っていたような記憶がある。
ま、万博のパビリオンなんて設計がフリーダムすぎるから、建設には時間がかかるのだろう。よう知らんけど。それに、海外の半分くらいの国は、日本みたいなシビアな納期意識は持ち合わせていない。間に合わなくたって誰も死なない、くらいの感覚の国は多いと思う。
90年花博のときは、開幕2日目にウォーターライドという、水力を使って会場内の高架水路を移動する乗り物で事故が起こり、半年の会期の半分くらいは稼働しなかったような気がする。たしか運行再開後も、部品落下とかいろいろあった。
パビリオンはともかく、交通系を突貫工事でやっつけると、安全が担保できるのか?と誰しも疑問を持つだろう。
1970年4月に起こった地下鉄工事中の天六のガス爆発事故は、死者79名、損壊半壊した家屋が1,000軒以上の大惨事だが、70年万博に絡む突貫工事で安全が軽視されたゆえの事故だと言われている。
今回の25年大阪・関西万博では大阪メトロ中央線の延伸が予定されている。工事の進捗がどうなっているのかは知らないけれども、事故など起こらなければいいのだが。
パビリオンは協会が用意してくれるにしても、ペルーみたいな小国では、展示内容の制作から運営までの費用を自前で用立てるのは難しく、ワシは協会の職員さんと一緒になって各企業に寄付のお願いにまわったものだ。
タイミングよく旧山陽相互銀行がトマト銀行に行名変更したので、ぜひご寄付を!とお願いに行ったりもした。トマトはペルー・アンデスが原産だからな。折しも時代はバブルだったので、そんな言いがかりみたいな話も通り、なんだかんだで2000万円くらいの寄付を集めた。ペルー単独ではなく、協会が協会名義で集めた寄付を小国に分配してくれたものも少なくはなかった。
国際博といっても、金も出せない小国は協会丸抱えで出展・参加している。今回の25年大阪・関西万博もそういう国が多いのではないだろうか。
インボイスという言葉はこのときに覚えた。貿易事務では普通に使う言葉で、納品書と請求書と送り状がひとつになったものを、貿易事務上ではインボイスと言った。今年からはじまるインボイス制度のインボイスとはおなじなのだろうか? 微妙に違う気もする。
「花とみどりの博覧会」だったので、「プヤ・ライモンディ」というペルー・アンデスに生息する珍しい植物をペルーから持ってきて展示した。パイナップル科の草木で100年に1度開花して枯死すると言われている。10mくらいの高さの(花博に持ってきたのは4mもの)ミサイルのようなかたちをしており、根本は直径2mくらいの巨大ないがぐり状のものがくっついていて、葉が鋭利なうえにトゲまでついている。とにかく奇怪な植物なので、ぜひ「プヤ・ライモンディ」で画像検索してご確認いただきたい。
生きたまま持ってこなければ意味がないので、もちろん土がついた状態で持ってくるのだけど、そもそも土を持ち込むこと自体が防疫の観点から禁止されている。花博では特例があったのだけど(だって花とみどりの博覧会やし!)、その特例も容易には適用されず(各国の展示予定品には花が多く、花は土なしでOKなものも多いから)、ペルー側のワシ、農林水産省、植物防疫所、万博協会の4者でタフな交渉を重ねて(住友倉庫にも無茶な注文を出した)、デッドラインぎりぎりで無事に入国・展示となった。そこにだって結構なお金を使った。輸送は船(4mやし、飛行機は無理ですな)だったので、それこそ会期に間に合うかどうか、というレベル。
大体、博覧会にかぎらずだが、締切仕事というのはギリギリになったり、少しオーバーしたりするものなのよ。
そうやって無事に展示できたプヤ・ライモンディだが、会期後、大阪市立長居植物園に寄付した。持って帰るカネなんてなかったからな。ただ、植物園では栽培が難しく、枯れたと聞いている。
会期中は華やかな日々だった。
秋篠宮さんと結婚したばかりの紀子さん(結婚前だったかもしれない。とにかくその前後)が来館して、やんややんやの大賑わいだった。当時の紀子さんはアイドル並みに人気だったのだ。ペルーのブースにも立ち寄ってくれて、我がペルーブースのスタッフはVサインで記念撮影をしていた。いやー、皇族とVサインでツーショットは、日本人の感覚では無理ですな。
ほか、会期中には参加国それぞれの日が制定されていて、何月何日だったかすっかり忘れたが、「ペルーの日」というものも決められていた。民族音楽のステージを中心としたイベントを組んで、会場を盛り上げたりもした。
さてその日は、会場内のレストランの特別室でおこなわれる午餐会に、ペルー館館長代理の肩書を持ったワシが代表として招待されるのある。これがすごいのだ。なんとホストは、協会名誉総裁である当時の皇太子徳仁親王。現在の天皇陛下である。そう、ワシはじつは、現在の天皇陛下が皇太子時代に差し向かいでメシを食っているのだ。しかもあちらがホスト。お忍びのプライベートな飲みではなく、公式行事の公式午餐会。
もうお分かりだろうが、ワシみたいな不良品が皇族と絡むというのが万博なのだ(違!) 万博とは、かくもカオスな場所なのである。
大体、24歳の日本の若造が国を代表して参加していること自体が異様で、異様ついでに、この「ペルーの日」では、信じられないことに、ワシに護衛が1人ついた。外敵からワシを守っているのか、ワシから世界を守っているのか、どっちや?というくらい異様な話である。
当時はまだ携帯電話はなくて、弁当箱みたいなサイズの電話を肩からさげて持つ自動車電話ってのがあり、それを持たされていた。まだ珍しかったので、護衛の人に、調べさせてくれと言われた。
会期中はテレビやラジオにも何度か出た。ラジオでは、「こんにちは、浜村淳」に呼ばれた。テレビの番組名は忘れたが、日本人がペルー国の代表としてブースにいてるということで呼ばれ、大島渚監督やら数人のパネラーと、海外で活躍する日本人というお題でバラエティ的なノリで会話を繰り広げた。べつにワシは海外で活躍する日本人ではなく、少し前まではペルー在住の単なるバックパッカーやったんやけどね。
以降、メディアには呼ばれていないので、爪痕は特に残さなかったのだろう。
隣のドミニカ共和国のブースで代表を務めていたのが、ライブハウス・新宿ロフトの創始者の平野悠さん。日本にライブハウスの文化を根付かせた第一人者だが、彼はいち時期新宿ロフトを離れてバックパッカーをやっていて、ドミニカで沈没し、レストランを経営していた。そっからいろいろあってドミニカの代表者として90年花博に参加し、ワシらは仲良くなった。
90年花博参加国の運営代表者はあたりまえだがほとんどはその国の人間で、日本人が代表者だったのは、ワシと悠さんくらいなものだった。悠さんとはとにかく気が合って、四六時中一緒に遊んでいて、90年花博が終わったあと、一緒に中国地方の温泉巡りをし、山口県に差し掛かったあたりの山の中で2人を乗せた車のダイナモがイカれ、えらい目に遭った。えらい目に遭ったが、音楽が骨の髄まで染みているバックパッカー同士の旅は、それはそれは楽しい時間だった。いろいろあって、その後、彼は新宿ロフトに戻り、ロフトプラスワンを立ち上げた。コロナ禍でライブハウスが槍玉に挙げられた際には、ちょこちょこメディアに顔を出していた。
また、万博ジプシーってのがいた。世界中のどこかで万博が開催されるたびに、小国の代表団に接近して、家賃払うから店を出させて!ってやるわけ。で、アクセサリーやら雑貨やらを売って荒稼ぎしてまた次の万博開催都市へと流れていく。90年花博のときは、直近のブリスベンで知り合った業者たちが再会し、次はセビリアで!なんて言い合っていた。いろんな人がいるのだ。
万博ってなんでもよう売れるのよ。通常の5割増しから2倍くらいの値付けでもヨユーで売れるから、そら世界中どこへでも行くわな。世界行商の世界行脚。
会期の半年間180日間というのは、中の人間にとっては毎日がお祭りの熱狂のなかにいるようなものなので、どいつもこいつも頭が火照っておかしくなる。しかもそこにいる人たちの出自は数十カ国にも及ぶし、協会だって建設省や農林省に外務省、大阪府市などからの出向の寄せ集めで、出自も属性もバラエティに富みまくった集団が連日イベントをやっているのだ。なんちゅーか、真夏のビーチか真冬のゲレンデみたいなものが、180日間続く。そら、頭のネジの1本や2本、ぶっ飛んでもおかしくないというものだ。
会場から近いニューオータニで、あいつとあいつがくっついて歩いてるのを見たとか、そういう話はいっくらでも飛び交っていた。二股三股不倫熱愛ワンチャン連チャンなんでもアリだった。そこに宗教も文化も絡んで、なかなかなカオスでしたな。
てなかんじで、ワシにとっては万博といえば90年花博で(70年万博は太陽の塔の中に入って生命の樹を見た記憶だけがかすかにある)、それなりに楽しかったよ。
今度の25年大阪・関西万博にはワシはなんの興味もないけれども、90年花博のワシがそうだったように、中の人になれば、ここでしか体験できないことは、それなりにあると思う。
是非が取り沙汰されているなか、中の人の視点や体験談って、あんまり出てきていない気がしたので、書いてみた。ごくごく個人的な体験談だが、内側から見た万博とは、こんなかんじです。
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