前回は、与力になり、奉行所の不正を暴いた末に与力を辞職するまでの時間を追ったわけですが、これに先立つこと5年前の1825年、大塩平八郎は、私塾「洗心洞」を大阪は天満の自宅に開きました。
教えていたのは、陽明学。
彼は、与力であると同時に学者としても広く知られており、同僚の与力、部下の同心、医者や豪農らに、陽明学の思想を説いていたのでした。
もっとも、当時は陽明学と呼んでいたかどうか。
朱子学から分かれた陽明学は、中国の明の時代に王陽明が起こした儒教の一派で、当時は、王陽明の名字をとって王学、後年のどこかで名をとって陽明学と変化しています。江戸時代はまだ、王学と呼んでいました。
呼び名はともかくとして、儒教から発展した朱子学も、朱子学から枝分かれした陽明学も、社会のなかにあって人はどのように振る舞うべきか、といった処世訓に集約されると、僕は思っています。
そこにはもちろん、孟子が説いた性善説も入り込んでいて、極端にいえば、「性」と「善」をキッチリと細かく定義して、それらに即した行動をとらねばならない、という学問です。
ものすごーく思弁的な説明にしかならんのですが、一応、書いてみることにすると…、
朱子学のテーゼであるところの「性即理」は、心を「性」と「情」に分別します。「性」とは天から賦与された純粋な善性を指し、「情」とは感情として表れる心の動きを指します。
そして朱子学では、そんな「性」のみが「理」にあたるとし、「理」とは人に内在する理(=性)であると同時に、外在する森羅万象の「理」でもあるとします。
つまり「理」は、自身の内にあれ外にあれ、普遍的である、と。
ところが、だ。王陽明は「性」と「情」の両方を併せたものが、「理」に他ならないという立場をとります。
でも、この解釈だと、心の内にある「性」(=理)を完成させるために、外的な森羅万象の「理」を参照する必要はないことになります。
これを現実の社会にあてはめてみると、世のなかにある権威や名誉といったものが軽視されて、大切なのは本質だけだ、みたいなことになってしまいます。
どういうわけか朱子学を学んだ人が陽明学に転向していく例は多いのですが、これはきっと、陽明学のほうが、純粋度が高いというか、ソリッドに削ぎ落とされているぶん、特に若い人たちに受けたんでしょうな。権威軽視は反権威に容易に繋がるだろうし、反権威は、それを叫んでいるあいだは、とりあえずはカッコいいですからな。
ただ、陽明学は、性も情も合わさって「理」となると説くので、情の代表である欲望を肯定してしまうところがあるんですね。
陽明学は明治以降盛んになっていくモノの考えなのだけれども、それはきっと、この、欲望の肯定が貨幣経済の浸透とシンクロしていったんではなかろうか、というのは、僕の考え。
閑話休題。
これ以上、陽明学について詳しく書いても仕方がないんで、本筋に戻ります。
日本に伝わった朱子学は、普遍的な秩序志向を持っていたので、体制側に好まれました。
一方、陽明学は、個人の道徳の問題に偏重する傾向を持っていたので、反体制の論理と容易に結びついて、体制に歯向かうことを好む人たちのあいだで流行りました。
大塩平八郎は、江戸時代、幕府に楯ついた大反逆者の烙印を押されたけれども、それはもちろん、陽明学の大家であったことと結びついてます。ただし、陽明学は、あくまで道徳を説くのであって、反体制を奨励する学問ではないですけどね。ただ、そう見られやすい、と。
事実、幕末の尊王攘夷は陽明学の影響をモロに受けてるし、そのルーツのひとつには、大塩平八郎の名も挙げられます。
で、大塩平八郎が陽明学を教えていた私塾「洗心洞」の規律は厳しくてですな、夜中の2時(←起床時間だとさ。笑)に講義がはじまり、真冬でも戸を開け放していたといいます。
でも、門弟は増える一方。
奉行所の不正の内部告発という一大事件の首謀者として活躍し、奉行所を隠居した大塩は、一介の学者として学問の道を究めようとし、40歳のときに、「知」は「行動」が一致して初めて生きるとする「知行合一」を説きます。
「口先だけで善を説くことなく善を実践しなければならないのだ」と言い放ってますからね。
そんとき、門弟とともに、富士山に登ってはりますわ。
富士山に登ることが知行合一なのかどうかはともかくとして(笑)、超ストイックな生活を自身に課していたことはたしかで、そのあたり、やはり、真っ直ぐな男としか言いようがなく…(笑)
さあ、これで下地はできあがりました。
次回はラスト、大塩平八郎の乱ですわ。
乱の拠点となったのは、もちろん、大塩平八郎の自宅にして思想的拠点である私塾「洗心洞」のあったところ。
これまた、造幣局の官舎内に、碑が残されています。
洗心洞跡碑
大阪市北区天満1-25 造幣局官舎内
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