大塩平八郎の足跡を辿るシリーズ、いよいよ佳境の「大塩平八郎の乱」に突入します。
これまでのエントリは、こちら。
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→「大塩平八郎の足跡を辿る(1) 名与力時代」
→「大塩平八郎さんの足跡を辿る(2) 私塾「洗心洞」
1833年、台風や冷害が重なったこの年の作況指数は不作もいいところで、米価が高騰します。しかも、3年続きの凶作で、餓死者が20万人~30万人という、大震災並みの危機が訪れるわけです。
これが、世にいう「天保の大飢饉」。
そうした事態のなか、与力を辞したとはいえ、世を憂う大塩平八郎さんは、ときの町奉行・跡部良弼(老中の水野忠邦の弟ね)に、飢饉対策を進言するのでした。
凶作とはいえ、大阪は日本のトレードセンターだったわけですから、全国から米が集まってくるので、市中にコメは出ずとも、コメ問屋や商家の蔵には、まだまだコメがあったんですね。もちろん、値上げ見込みの塩漬け作戦。
こーゆーことは、いつだって、ときの政府の仕事のはずで、平八郎さんもですな、値上げ見込みで売り惜しんでいる豪商たちから奉行所命令でコメを出させてはどうか、と、訴えるわけです。昨今のマイナス金利政策の強力版。
ところが、跡部奉行は、奉行に意見するとは無礼者!と、大塩案に耳を貸さず、です。
ちなみに、この、コメの出し惜しみ&値上げ大作戦というのはなかなかえげつなくて、奉行所もグルになっていました。
大阪に搬入されるはずのコメを兵庫でストップさせて、海上から将軍のいる江戸に運搬し、点数を稼ぐ、と。
これだと大阪にコメが流れないので、大阪では米価が高騰で豪商はホクホク、奉行所は将軍家にたいして点数稼ぎができるので、こちらもホクホク。
大阪の米価は、このせいで6倍まで高騰したそうです。もうね、世のため人のためなんて考えはどこにない、超利己主義に走りまくってる人たちばっかり。
で、平八郎さんが打った次の一手は、三井や鴻池らの豪商に、人命がかかっているから6万両の義援金を出してくれ、というもの。
でも、豪商さんたちは、これも無視。
ただ、大塩平八郎は、やることが直裁的に過ぎるのですよ。もちょっと根まわしというか、硬軟織り交ぜたやりかたはなかったのだろうか、と、彼の動きを見ていて後年の僕は思うわけです。大飢饉の真っ最中とはいえ、豪商からダダでコメを出させたりカネを出させたりというのは、向こうも商売人やから、そう簡単に呑める話ではないです。それと引き換えに名誉を与えるとか、あとで低利で融資を受けられるように取り計らうとか、相手が乗りやすい話に仕立て上げることはできんかったんですかね、と、思わんでもないです。
というわけで、対策は一向に進まないまま、餓死者の数だけが増えていくなか、平八郎さんは、自身が日頃から唱えている陽明学の教え、知行合一にしたがって、正しい知識は正しい行動が伴ってこそ、を、実践することを考えるようになるわけです。
事態が一刻の猶予もないなか、コトここに及んで、平八郎さんはついに力ずくで豪商の米蔵を開けさせる決心をします。堺で鉄砲を買い付け、高槻藩からは数門の大砲を借ります。最終目標は、あり余るほど大量の米を備蓄していた、大坂城の米蔵!
蜂起のまえ、平八郎さんは、門下生や近隣の農村に向けた木版刷りの檄文を作成します。
「田畑を持たない者、持っていても父母妻子の養えない者には、市中の金持ちの商人が隠した金銀や米を分け与えよう。飢饉の惨状に対し大阪町奉行は何の対策を講じぬばかりか、4月の新将軍就任の儀式に備えて江戸への廻米を優先させ一身の利益だけを考えている。市中の豪商たちは餓死者が出ているのに豪奢な遊楽に日を送り、米を買い占め米価の吊り上げを謀っている。今こそ無能な役人と悪徳商人への天誅を為すときであり、この蜂起は貧民に金・米を配分するための義挙である」
と。
1837年1月。平八郎さんの同志連判状に約30名の門下生が名を連ねました。
内訳は与力や同心が11名、豪農が12名、医師と神官が2名ずつ、浪人1名、その他2名。役人と百姓が主軸です。
2月になり、平八郎さんは5万冊の蔵書を売り払い、手に入れた600万両を1万人の貧民に配ります。が、しかし、奉行所はこれを売名行為と罵ります。
檄文は周辺4ヶ国の貧農に配付され、一切蜂起の日時を、新任の西町奉行が初めて市内を巡回する2月19日、町奉行が大塩邸に近づく夕刻とします。
いよいよ蜂起☆ 大塩平八郎の乱の幕が切って落とされました!
舞台は、洗心洞!
切って落とされたのですが、長くなってきたし話はまだまだ続くの、この先は次回ということで。
洗心洞跡碑
大阪市北区天満1-25 造幣局官舎内
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