大塩平八郎の足跡を辿る(4) 「大塩平八郎の乱」とその後

大塩平八郎

まっすぐな男・大塩平八郎の足跡を辿るシリーズ、ついにラスト、「大塩平八郎の乱」突入です☆

これまでのエントリーは、こちら。

「大塩平八郎の足跡を辿る(1) 名与力時代」
「大塩平八郎さんの足跡を辿る(2) 私塾「洗心洞」」
「大塩平八郎さんの足跡を辿る(3) 蜂起前夜」

では、行きます!

蜂起当日の午前4時。門弟の与力2人が裏切り、計画を奉行所へ密告。当直で奉行所に泊まっていたべつの門弟が、バレたーっ!と平八郎さんに急報。
事態は一気に風雲急を告げます。

事態急変を受け、平八郎さんは、予定を早めて早朝、「救民」の旗を掲げて蜂起します!冬の朝の大阪に大砲の音が轟くものの、計画が早まったせいで仲間がなかなか集まらず、最初は25人で悪徳与力の朝岡宅を砲撃し、その後、なんと、蜂起の拠点でもあり自宅でもある洗心洞に火を放つのですよ。

天満にあがった火の手が決起の合図!と伝えてあったので、洗心洞に火を放って狼煙をあげることになるのだけれども、やることがドラマチックすぎます(笑)

でもその狼煙で近隣の農民が次々と駆けつけ、約70名に膨れ上がります。
で、鴻池善右衛門、三井呉服店、米屋平右衛門、亀屋市十郎、天王寺屋五兵衛といった豪商の邸宅を次々と襲撃し、奪った米や金銀をその場で貧民たちに渡していったのでした。ほとんど、フランス革命のノリ☆

そいでからですな、ライオン橋(当時、もちろんライオン像はなかったけれども。笑)を南下して船場に着いた昼ごろには町衆も多く混じるようになり、約300人になっていたとか。次なる目標は大坂町奉行!そして大坂城!
「救民」の旗を翻し、進軍する平八郎軍団なのでした。

しかし、正午すぎには奉行側も反撃の態勢を整え、大坂城からは2,000人規模の幕府軍が出陣します。そして幕府軍は潤沢な戦力を持ってますから、圧倒的な火力で砲撃戦を展開したのでした。
こうして幕府軍の反撃がはじまると、平八郎軍団も戦闘員ではない烏合の衆の集まりですから、散り散りと霧散するようになり、100名程度になってしまうのでした。
私塾の門下生 vs 正規軍、しかも100人 vs 2,000人ですから、これでは勝負になりません。平八郎さん一党は砲撃を浴びながら淡路町まで退き、2度目の総攻撃を受け、夕方には完全に鎮圧されたのでした。
ただ、戦火がね、かーなりの被害だったらしいです。翌日まで類焼し、約2万軒、当時の大阪の中心部の1/5を焼き尽くしたとのこと。平八郎さんの蜂起の是非はともかくとして、結果として、戦災被害もまた甚大だったようです。ちなみにこれ、「大塩焼け」と呼ぶそうです。

事件後、門下生たちは軒並み捕縛されたのだけれども、大塩と養子の格之助だけは、行方をくらまします。
約40日間逃走したあと、靱油掛町の民家に潜伏しているところを包囲され、大塩父子は自ら火を放って、火薬を撒いて爆死。壮絶な最期を遂げます。享年44歳。いや、それにしてもすごいなっ!

さて、この乱で処罰された人は、じつに750人。
重罪者が31人で、そのうち6人は自害、1人は刑死、1人は病死、17人は獄中死しています。仲間の名を吐かせるために過酷な拷問が行なわれ、平八郎さんの彼女も、その過程で獄中死してはります。刑の執行まで生存していた人は、わずかに5人だったそうですわ。

平八郎さんには、逃亡中で被疑者不在だったのにもかかわらず、最も重い判決の「重々不届至極」が下ってます。
のちに幕府は爆死して黒焦げになった平八郎さんの遺体を塩漬けにして保存し、門弟20人の亡骸とともに、磔にしたそうです。エゲツナイ沙汰ですが、体制維持のためには、反逆者は見せしめにせねばなりません。

幕府はこの騒動が各地に波及するのを恐れ、反乱の実態を隠し、不届き者の放火騒ぎ事件として定着させようとします。でも、平八郎さんが1ヶ月以上も逃亡したために、広域捜査をせねばならなくなり、蜂起のことは短期間で全国へ知れわたってしまったのでした。しかも、爆死したことで人相確認が困難を極め、「大塩死せず」との噂が各地に流れてしまう始末です。

幕府の思惑とは裏腹に、乱から2ヶ月後、広島は三原で800人が「大塩門弟」を旗印に一揆。
6月には越後の柏崎で国学者の生田万が「大塩門弟」を名乗って代官所や豪商を襲います。
7月には大阪北西部で山田屋大助ら2,000人の農民が「大塩味方」「大塩残党」と名乗って一揆。
平八郎さんの蜂起によって放たれた火は、稜原の炎となって、あちこちにひろがっていったのでした。

なお、大阪周辺の村にたいして、奉行所は平八郎さんが送付した檄文を差し出すよう命じたのだけれども、農民たちはこれにしたがわず、厳しい監視の目をかいくぐって写筆し、各地に伝えていきました。

平八郎さんが起こした乱のとんでもないところは、薩摩や長州のような巨大な大名ですらがまだ幕府に従順にしたがわざるを得なかった時代に、ひとりの個人が数門の大砲を調達し、白昼堂々と大阪の市中で大砲をぶっ放し、豪商の米蔵を打ち壊しながら奉行所や大坂城襲撃をもくらんだ、という点ですわ。
普通、考えんですよ、こんなことは。
そのせいで徳川政権は大きく揺さぶられ、幕府の力がたいしたことはないのだということを、全国に知らしめてしまいました。
このとき、坂本龍馬が2歳ですから、その後の尊王攘夷運動を予見するような出来事です。黒船来航以前のこの時期、すでに下地ができあがっていたということですな。

とはいえ、平八郎さんらがどれだけ鉄砲や大砲をそろえたところで、幕府を敵にまわしての戦に勝ち目などあるはずがありません。
平八郎さんも、いくら血の気の多い性格だとはいえ、頭脳明晰なお方、そんなことはわかっていたように思います。だからこそ、蜂起前に資産を処分して貧民に配ったのではなかろうか、と思うのですよ。
つまり、あらかじめ負けを覚悟した戦いだった、と。
死して訴えるということは、自らが理想を信じていない、悪しき敗北主義だと言い放つこともできるんですが、陽明学にはそういう美学もあるし、死を賭して訴えるのは日本の武士道の美学でもあるので(ちなみに、失言した、しくじったので責任をとって切腹します、と、のたまったこないだの高校野球の監督さんのふるまいは、武士道精神からは外れてます。切腹は上役に逆らってでも正しいと思うことを進言する際のふるまい作法で、名誉の死とされているものです。失敗の責任をとるためのものでは、ないです)、それに則ってのモノの考えかただとも思います。
それにしては、やることがとんでもなさ過ぎますが(笑)

さて、この乱による戦火で2万軒が焼けたわけですが、幕府側にいたはずの平八郎さんが民衆のために立ち上がり、一身を犠牲にして庶民の救済を求めたのだから、大火で焼け出された人々は、平八郎さんに怒りをぶつけるどころか、その徳を讃えたそうです。のみならず、事件後、市中で平八郎さんを賞賛したとして、数十名の逮捕者が出ているほどですわ。

その、大塩平八郎の墓は、現在、末広町の成正寺にあります。
江戸時代、幕府にとっては大罪人でしかない平八郎さんの墓をつくるなどということは許されなかったのだけれども、明治維新から30年後にようやく名誉を回復され、墓がつくられます。
第2次大戦末期の大阪大空襲で破壊されたのだけれども、1957年に有志が墓を復元。『大塩の乱に殉じた人々の碑』とともに、安置されています。

成正寺

成正寺

成正寺(大塩平八郎墓所)

大阪市北区末広町1-7

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください