話は27年前に遡る。
1987年の沖縄で、ジェームス・ブラウンのコンサートが開かれた。このコンサートが、今思い返しても、ゾクゾクするほど素晴らしいものだった。
帝王のコンディションは上々、米軍基地の黒人兵が大挙して聴きにくるという、時代も場所も最高のセッティングだったからだ。
コンサート終了後は、市内のクラブ「なんた浜」に嘉手苅林昌の琉歌を聴きに出かけたのだった。ライブのハシゴである。
主催者の竹中労一行が到着した午前2時過ぎは、夜更けもいいところだというのに、ジェームス・ブラウンのコンサートから流れた客で店内はいっぱいだった。このとき僕は、嘉手苅林昌の歌う八重山民謡を初めて聴いた。
林昌さんが八重山の民謡「とぅばらーま」を歌ったとき、客席から、つんださや、つんだーさー、と、名調子の合いの手がかかった。なんと、山里勇吉である。気付いて周囲を見ると、いるわいるわ、照屋林助、国吉源次、登川誠仁など、琉歌の大御所が、ごっそり。皆、ジェームス・ブラウンのコンサートから流れてきていたのだった。
琉歌とジェームス・ブラウン。
関係ないようだが、琉歌の名人たちは、コンサートに感応し、対抗意識を燃やしたものと見えた。そして、名人たちを交えた琉歌のジャム・セッションは、夜が白むまで続いたのだった。音楽が、唄が、万華鏡のようにめくるめく煌めいた夜である。
このときの唄の多くは、八重山民謡だった。今にして考えると、ジェームス・ブラウンのソウルに対抗しての八重山民謡だったに違いない。八重山の音楽は、民謡と流行歌が分化していない「原・うた」のような状態にあり、唄本来が持っている情熱や躍動感を、未だ失ってはいない。だからこそ、ジェームス・ブラウンに対抗して、名人たちが直感的に八重山民謡を選んで歌ったのだと考えたい。
そのとき以来、僕にとって、八重山は遥かなるニライカナイなのだ。
そのような名人たちの音楽の極みは、さまざまに種をまいていく。
八重山民謡の名手にして若き至宝、大工哲弘が「ジンターナショナル」や「ウチナージンタ」を引っさげ、内地に新しいリズムとタイム感、うねりをもたらしたのは、20年ほどまえのことだったろうか。
現在、世界最高の唄者のひとりである古謝美佐子が「童神」を自主制作で世に問うたのは、1997年の冬のことだ。
NHKの連続テレビ小説「ちゅらさん」が放映され、沖縄ブームに火がついたのは、10年ほど前だろうか。
「ちゅらさん」の第1話冒頭でえりぃがチャリをこいで走っていた道は、ドラマの舞台となった小浜島のシュガーロードである。
道の両脇にはサトウキビ畑がひろがり、その向こうには、エスメラルダ・ヴェルデの海。
途中にぽつんと立つ琉球松のたおやかな1本は、むかし、男女の逢い引きの場所だったそうだ。
もっとも、両脇のサトウキビ畑は、その多くが石垣牛の牧場へと変わっていった。10年前にTVに映し出された風景と今のそれは、大きく様変わりしている。
砂糖の国際相場に応じて原料代金は変動するが、製糖工場に持ち込んで、1トンあたり約21,500円。
交付金は、糖度によってこれも変わるが、平均して1トンあたり約16,000円。
一方、2000年に沖縄サミットでの晩餐会に出されて絶賛されたのを機にブランド化された石垣牛は、20ヶ月以上飼育された牛が平均にして約80万円で取引される。
何トンのサトウキビを収穫すれば、石垣牛1頭に並ぶのか。
儲かるほうに転換する流れは、止まりそうもない。
シュガーロードをチャリで走りながら、iPhoneから「安里屋ユンタ」と「童神」を交互に流しながら、やっと、八重山に、石垣に、小浜に、この場所に来たのだと思った。
Flickrに画像あります。
小浜島
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