僕は日本史が好きで、国内のどっかに行くときも、ガイドブックよりも網野喜彦や司馬遼太郎の本で予習するような塩梅なんですが、網野史観や司馬史観、折口史観、梅原史観に触れるよりもはるかむかし、山岸涼子の『日出処の天子』を貪るようにして読んで、聖徳太子や天平時代に思いを馳せていたもんです。
その、『日出処の天子』の最初のほうに、聖徳太子、つまり厩戸皇子が、女装してまで会いにいったという日羅という、百済から来た高僧の異様な存在感に、なかなか興奮したものでした。
この漫画では、厩戸皇子は、常人では持ち得ないような怪しい能力を駆使する存在として、周囲から怖れられていた人物として描かれているのけれども、その厩戸皇子に向かって、「そこにいる童は人にあらず」と、厩戸皇子の本質を正確に見抜く慧眼を発揮したのが、日羅です。
『日出処の天子』は厩戸皇子やら蘇我蝦夷が主人公で、日羅なんて脇役中の脇役なのだけれども、それでも、僕の心には、魚の小骨のようにして、なんとなく日羅が心に引っ掛かっていたのでした。名前の響きも、ちょっと神秘的というか、謎めいているかんじがするじゃないですか。
『日出処の天子』に出てくる日羅は、こんな人です。
後年、奈良の明日香を訪れた際に、西国巡礼の札所にもなっている橘寺に立ち寄った際、日羅の木像があるのを発見したのでした。
これが一木造りの立派な仏像でして。
奈良時代、定朝の出現により、パーツごとに作成したものを組み合わせるプラモデル・タイプの寄木造りの仏像が出現するのですが、飛鳥時代のそれは一木造りが大半で、原木の持っている捩じれやらクセやらが生かされていて、精緻を極めた寄木造り仏像とはまた違った、荒々しさや神々しさがあって、僕は好きです。
寄木造りは、図面を引き、家内制手工業によって営まれた工房で、仏師が各パーツを分担してつくるので、どうしても洗練されてきます。翻って、一木造りは、一人の仏師が原木と対峙しながら、仏像を仕上げていく。モノヅクリは最終的には素材との対話になりますから、この木はなにになりたがっているのだろうか、と、素材と対話を重ねながら、造形していきます。そこには、作者のナルシズムが入り込む余地がありません。そういう仏像が、僕は好きですな。
この日羅像も、全身の矩形の微妙な捩じれ具合や太腿の膨らみ具合に、原木が持っていただろう荒々しさが生かされていて、グッと来ます☆
さて、
その日羅は、もちろん実在の人物で、達率(だちそち)という、百済では2番目に高い位に就いた高僧です。で、てっきり、仏教、つまり、当時の最先端の文明を伝える伝道師の役割を帯びて日本にやってきた人物だと思っていたのですが、どうやらそれは僕の思い違いだったということが、最近、発覚しました。
日羅は、もともとは肥後の人で、かつては日本の領土だった朝鮮半島の任那を新羅から取り返すために、百済に派遣された人やった、というのが、日本書紀その他に書かれています。
いろいろと異説はあるんですが、当時の情勢についての代表的な説を書いておくと、
西暦400年代のどっか、大和朝廷は朝鮮半島の南の一部を実効支配していて、そこは任那と呼ばれていました。大和朝廷といっても、これは連邦国家の総称みたいなもんですから、実際に統治していたのは、狗邪韓国(くやかんこく)です。
ま、これが、豊臣秀吉の朝鮮出兵や西郷隆盛の征韓論が企てられたときの、そこはかつて日本の領土だったから奪還するんや!という根拠になるんですが、このへんは、民族主義的、政治的な思惑もあって、異論噴出、なにがほんまのところかは、謎といえば謎です。なんせ、かーなりむかしの話やし、日本書紀も魏志倭人伝も政治的な思惑で書かれている記述の塊ですから、なにをどう信用していいのかは、わからんところです。
とにもかくにも、朝鮮半島の南部には、日本が実効支配していたらしい任那という国があり、でもそこは、当時の一大勢力だった新羅に持っていかれるわけです。同時に、朝鮮半島では、百済と新羅が対立しており、新羅と敵対している日本は、敵の敵は味方の理屈で、百済と仲よくやるようになり、百済と人的・経済的な交流を深めていくわけです。
その交流を通じて、日本に仏教、この場合、仏教というのは、仏教に付随する一切合切を含めた文明そのものを指していて、それこそ、寺院建立のための建築技術から治水、灌漑なんかの土木技術、そしてもちろん文字、陶器、冶金技術、果ては政治手腕としての律令(税制と法体制ですな)なんかも含めての文明としての仏教を、吸収していくわけです。
吸収の方法として、人的交流というか、たくさんの偉いさんが、百済からやってきます。これが渡来人ですな。秦氏一族が土木技術を持ち込んで京都を地ならししたり、鳥氏が木造建築技術を導入して寺院建立や仏像製作を伝えたり…、なんてのが、そうです。
明治のころに学者を大量に雇って文明開化を押し進めた維新政府の、古代版みたいなもんです。
百済サイドにしても、自分たちとおなじ文明、つまりおなじ価値観を有する地域がひろがることは、お付き合いしやすい隣人が増えることと同義なので、もちろん積極的にそういう外交を押し進めます。アメリカが民主主義を世界中にバラまいて、世界中をアメリカの持つ価値観と同質のものにしてしまおうとするのと、おなじことですな。
という時代背景のなかで、日羅は、百済から派遣された、日本に仏教を定着される指導的な役割を帯びた高僧だとばっかり僕は思っていたのですが、どうやら歴史とは、そう単純ではないようで。
日羅は、任那奪回を悲願とする時の権力者が、朝鮮半島情勢の詳細を把握するために百済に送り込んだ人物なのでした。外交的な役割も政治的な役割も帯びていなかったようなので、スパイでも外交官でもなく、ただただ、文明を学びに派遣された、公費による留学生のようなもんです。
で、大変に優れた人物だったので、百済で第2位の達率にまで昇りつめます。
悲願であった任那奪回というか再興のために、日羅の知恵を借りようとなり、当時の帝である敏達帝は日羅を呼び戻そうとするのですが、日羅が優秀だったゆえに、百済でも彼を離したがらず、いろいろと綱引きもあったようです。
あったようですが、最終的には、日羅は、敏達帝の詔を受けて、帰国。これが、583年の出来事です。
そんときに、百済王は、日羅の行動を監視するとともに、日羅を百済へと連れて帰る目的で、数人の百済人を同行させます。
これが、のちに、アダになった。
大和朝廷は、政治問題の一環として、日羅に、任那奪回の知恵を請います。
そこで日羅が進言した答えは、
まず、百済を攻めよ、というものでした。
百済を攻め、要塞を築き、そこを任那奪還の拠点とせよ、と。
じつはこのとき、百済が九州を侵略する計画を持っており、日羅がそれを大和朝廷に漏らした、という話もあります。
これが、同行していた百済人の耳に入り、百済に対する重大な裏切りとして、日羅を暗殺する、と。
『日出処の天子』での日羅は、もちょっとキャラが生々しく造形されているのですが、史書を読みあさるかぎりでは、彼のキャラにまで踏み込んだものは、見つけられませんでした。
人物像については、橘寺の仏像から想像するしかないですな。
さて、
その、日羅の碑が、北区同心の、源八橋西詰めの近くにあります。
日羅が暗殺されたのは、難波の津で、暗殺を嘆いた敏達帝が、その近くに遺体を埋葬するよう、差配したとのことです。
史実では、日羅は、聖徳太子の仏教上の師ということになっています。
明日香の橘寺に日羅の木造があり、埋葬されたのは、天満の大川のほとり。聖徳太子も、大阪に四天王寺を建立し、奈良には法隆寺を建立しています。
古代、大阪と奈良が一直線で結ばれていた証が、ここにはあります。そして、その直線は、日羅を通して、はるか朝鮮半島にまで続いていることを、今の僕たちは、この碑ひとつからでも見渡すことが出来ます。
そんなわけで、ここに日羅の碑があります。碑そのものは、昭和30年に、建てられました。アパホテルの近所なんで、アパホテルの豪華昼食バイキングを食べたあとの腹ごなしにでも、どうぞ。
日羅公之碑
大阪市北区同心2-15
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